MATSUI Yoshihiko’s Film “THE NOISY REQUIEM” Digitally remastered

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コメント 


石井岳龍(旧名・聰亙 / 映画監督)

松井良彦の映画はツライ。異形ではあるが、愛の飢餓の量はとてつもなく大きく、悪意と表裏一体で我々を撃つ。


行定 勲(映画監督)

『追悼のざわめき』は、僕にとって特別な映画であることは間違いない。上京した頃、住んでいた町の小さな映画館の一番前の席で浴びるようにこの美しいモノクロームの映画を観た。20歳だった。僕の青春には『追悼のざわめき』が染み付いている。あれから絶望するたびに、このせつない夏の映画を思い出すのだ。


束 芋(現代美術家)

観ている間、ずっとざわざわしていた。そして、今、思い出しただけでもざわざわしてくる。このタイトルは、鑑賞者の感覚を表現しているものなのかもしれない。
既に平均寿命の半分ほどを生きてきて、色々なものを見、体験もしてきた。その成果として、初めて目にするものも既視感があったり、以前見たものを彷彿とさせたり、ほとんどのものは、自分の中で系統別にフォルダに入れて整理することができる。良くも悪くも、そうやって整理することで、初めて見るものを深く理解することができるようになる。
でも「追悼のざわめき」は、既にあるどのフォルダにも入れることができなかった。そして、「追悼のざわめき」のためのフォルダを新しく作っても、そのフォルダをどこに置いたらいいのか、未だにわからない。
鑑賞中、道徳観や理性など、まるでまだ知らない子供のように、目の前にある映像をただ眺め、気がつけば、いつの間にか深く巻き込まれていた。痛みや寂しさ、そして、言葉では表現できないような感覚まで、直接、突き刺さってくる。冷静になるために、映画を観ている自分の眼球に映像が映り込んでいるところを何度も想像した。そうするとなおのこと、自分が正気を失っているようで、怖くなった。そうやって、ずっと、ざわざわしながら観た「追悼のざわめき」は、今現在も理解できてはいないが、もの凄く素晴らしい作品だったと断言できる。


魚喃キリコ(漫画家)

松井監督ご本人のやわらかさと、内面に隠し持っている“男”という本当の感性。人間という、本能。この作品を拝見して、私は松井良彦というひとに、もっともっと触れたくなった。


会田誠(ヘンタイ美術家)

今回初めて見たのに、ひじょうに懐かしかったです。今から20年以上前、1980年代の自分の「下半身の実感」がまざまざと甦り、自分の原点を見る思いがしました。


山下敦弘(映画監督)

手加減というものを知らない残酷で美しいざわめきが視覚、聴覚をぬけ全身に響きまくりました。この響きはしばらく体に残ります。覚悟して観た方がいいです。


乙一(小説家)

「自分はいったい、何を見せられているのか?」
強烈な臭気の中で、聖なるものがかいま見える。これは悪夢なのか、それとも奇跡の神秘体験なのか。


中原昌也(ミュージシャン、作家)

長い封印を解かれ、ついに皆と、あの「追悼~」の世界を共有できるのかと思うと・・・、どこか放火してやりたくなる。


長崎俊一(映画監督)

黒光する映像が毒素と鑑賞、時としてハッとする美しさを見せて混乱する。そこにパワーが充ち充ちているのだ。


矢崎仁司(映画監督)

「追悼のざわめき」が映画史に刻まれたとき、映画は死ぬ。だって、この映画は生きているから。不幸にして未だ「追悼のざわめき」を観ていない人は、このチャンスを逃さないで欲しい。それでも、観ない人は、映画を語るな。愛を語るなよ。


金子修介(映画監督)

うだるような夏の不快感や、普段は目を背ける者へ向けられるカメラの視線や、わざわざ汚い物をほじくり出すような趣向が、不思議な透明感でモンタージュされている。


大高宏雄(映画ジャーナリスト)

イメージの、その圧倒的な連鎖にまず驚かされる。イメージが即物語を、物語が即イメージを喚起する映画構造は見事と言う他ない。オーバーでなく、松井良彦は90年代映画作家の一番手に位置しているのではないか。


北川れい子(映画評論家)

誠実な悪意というものがあるとすれば、この作品がそれだ。毒と憎悪と暴力と狂気が全力で疾走し、おぞましくも美しい。


友成純一(作家)

近親相姦有、人形愛あり、臓物嗜好あり、フリークあり、XX問題あり……。ありとあらゆるアブナイものが詰まった玩具箱。芸術映画のくせに面白いんですなあ、これが。


三谷みどり(編集者)

フィルムを独り占めして一晩中でも、寝ても醒めても見ていたい。もうたくさんだと思うまで、すべてを記憶してあたしのものにしてしまうまで。それがダメならあたしがフィルムになるまでだ。あたしは「追悼」になりたい。