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仲井まみ子

聞き手> 劇中で、強いインパクトを与えていたのが、仲井まみ子さんだと思います。彼女が映画に出ることになったきっかけを教えてください。

松井> 1979年に、私は映画『錆びた缶空』を創りました。そして、すぐに『追悼のざわめき』の原案となる「胎児の玩具」という脚本を書きあげました。『錆びた缶空』のPFFの上映で大阪へ行ったときに、「小人症の女性で映画に出てくれる人はいないかなぁ」といろんな人に話しました。そしたら皆に「そんなもん、おるわけないやろ」と言われました。その後、私は第二作目の映画『豚鶏心中』を創り、その京都上映のときにも、私は、同じことをいろんな人に話しました。「松井は、本気なんやな」と皆が思ってくれたようです。そんな折、ある友人から「松井が捜している小人症の女の人が、知り合いのスナックによく来るよ」と教えてもらいました。で、私は、「だったら、ちょっとこの映画のことを話してくれないか」と脚本を彼に渡して、その後会うことになったんです。

当時、彼女は、京都の料理屋さんで仕事をし、それが終わって家に帰れば、インコが待っているという、そういう生活をしていたようです。

数日後、仲井さんに会いました。彼女は最初、断るつもりだったようです。私もそれを感じていましたので、「こら、アカンかな」と思いました。私が「映画は好きですか?」と聞いて、彼女が「好きじゃない」と言ったら、諦めようと思っていました。幸い、彼女は「映画は好きです」と答えてくれたので、「じゃ、一回現場に遊びにおいで」と誘いました。現場では役者の佐野君やスタッフが一生懸命、いいものを撮ろうとしていますので、それを見て彼女は「面白そう」と言ってくれて、出演となりました。

脚本を読んだ彼女から、「あのう、質問してもいいですか?私はいじめられる役ですか?」と聞かれました(苦笑)。私は「いや、そうではなくて、報われない愛に狂う役で、でも報われないけれども、好きな人のために一生懸命生きた人の役です。自分が破滅してもいいと思えるほどに人を愛する、そして発狂してしまう。そういう役です。美しい役です」と説明しました。それで彼女は、「やってみようかな」と思ってくれたようです。

彼女が「映画」を好きであってくれたから、また現場の皆の一生懸命さを彼女が見てくれたから、映画に出てくれた。ですから私は、心から、彼女と「映画」と、皆に感謝をしています。

今、思い返すと、彼女のファースト・カットは見事でした。それは、彼女がガラス障子を開けて、お辞儀をするシーンです(上記の写真)。で、私は、えぇ表情やなぁ、と思いました。勿論、一発OKです。ファースト・カットが一発OK。彼女も、嬉しかったんでしょうね。それで最後まで、頑張って、映画に出てくれました。

映画が公開されたとき、幸いにもお客さんがたくさん来てくれた。で、私が「仲井さんが頑張ってくれたおかげやな」と言ったら、彼女は照れて笑っていました。

ある日、彼女はお客さんに「サインしてください」と言われたんですね。そうしたら彼女、ポーンと弾けたんです。一気に開放的になって、髪の毛を青く染めたりして。30才にして青春を取り戻したんだなぁと思いました。



さらにコア&レアな話が続きます。乞う、ご期待!